第3部 100年の伝統、協伸株式会社
協伸株式会社は、現在の金田陽司で3代目です。金田家は革づくりを家業とし、明治時代から代々、ヒア区素材の製造にたずさわってきました。
日清戦争が終わって3年後の1898(明治31)年、姫路市高木で、陽司の祖父・盛易は生まれました。高木は皮革のまち。盛易は子どものころから地域の人々が革づくりにはげむ姿を見て育ちました。他の家の仕事を手伝いながら、革づくりを覚え、1910(明治43)年独り立ちしました。わずか12歳でした。
盛易少年が覚えたのは、伝統の姫路靼の製法。すべての工程が手仕事でした。原皮から毛を抜く川漬け作業では、皮をくいに結びつけて市川の水にさらします。この作業では、原皮に水をまんべんなく触れさせることが重要で、そのため皮の上下を付け替えに、夜中も市川に足を運びました。
さらに足でもみ、手でヘラをかける工程へ。使った薬品は塩となたね油だけでした。
白なめしの工程には何度か天日干しの段階がありますが、そのたびごとに皮をリヤカーに積んでやはり市川へ向かいました。市川の川原には、地域の人々が干す皮がずらりと並び、壮観な光景だったそうです。
地域産業の担い手として盛易が革づくりに打ち込んでいるうちに、世の中は戦時体制へ突入。盛易は兵隊がはく軍靴の底革(厚さ4~5ミリ)をつくるようになりました。しかし原皮は配給制。十分な量を確保しようと、現金を持って買い付けに出かけることもしばしばでした。病気で熱を出したときはアイスキャンデーを袋に入れて頭を冷やしながら、九州行きの汽車に飛び乗ったそうです。この時代の買い付けは一筋縄ではいかず、詐欺に遭ったこともあります。船で送られてきた荷を開けると、皮ではなく石がぎっしりと詰められていました。
— 戦後は靴用の革を生産。新しい素材開発も —
戦時中、軍需産業だった皮革生産は戦後、平和産業に変わりました。軍靴の底革をつくった経験を生かし、安全靴の革を手がけるようになりました。
日本が高度経済成長に入ったころ、盛易は亡くなり、次男の金田二郎が後を継ぎました。二郎は、受け継いだ事業を1955(昭和30)年には金二製革所と法人化し、さらに1972(昭和47)年には協伸株式会社とあらためました。
二郎は革素材への開発意欲も高く、靴の甲革(靴底の反対。靴の上側の革)用として床革を利用してつくったエバースキンは大きな反響を呼びました。またスエード調のトコベロアという革素材も考案し、会社を発展させました。
そして、現在の3代目・陽司につながります。
金田盛易。姫路靼から始めて、協伸株式会社の礎を築きました
金田二郎。開発意欲が高く、会社を発展させました。